「てらす」
午後の休憩を知らされ、味気ないサンドイッチを平たく潰した。
歩きながらそれを口に押し込み、屋上に続く階段へと足を運ぶ。
どこかの部署の社員が書類の束を抱えながら速足で通り過ぎて、廊下の湿った空気が彼にひっついていく。
この時期は雨がよく降り、ぐったりした海風が街全体に吹き込む。
屋内にいるだけでじめじめとした空気が充満し、なかなか仕事に集中できない。
階段を上った先の建付けの悪いドアにもたれかかりながらドアノブをひねった。
外は室内の空気よりはマシな風が吹いている。近くにそびえたつ風車がいつもと変わらない表情で海を眺めていた。
最近は変わらない仕事ばかり続いてうんざりしている。
ふと海の方を見ると、雲の間から漏れ出た光に照らされたり照らされなかったりした微妙なシルエットが、ふわふわと海の上を滑っていく。
じっと見ていると時折、柄になったり、ならなかったり、何を考えているのかわからない奴だと思いながらも、何かに期待するかのように海の上をじっと見つめていた。
十分後ぐらいに後輩が屋上にやってきた。
数個言葉を交わし、彼もまた海をじっと見つめている。
なんとなくもったりした時間だけが流れ、二人でオフィスに戻った。
仕事が終わり、早く帰ってもしょうがないので、駐車場の自販機でコーヒーを買ってだらだらしていると、後輩も会社から出てきた。
彼も毎日変わらずでつまらない、などとこぼしていたので、少しドライブに誘った。
会社から少し離れたところに古い施設があり、こんなところに何があるのだろうと気になっていたのだ。
海の見える道を過ぎ去り、島の外周に沿ってうねった長い道を走る。
大きなカーブにさしかかり、左手の雑木林から急にそれは現れた。
大きな駐車場が隣接していたのでそこに車をつけて、建物の方に向かう。
これは何かの観測所だろうか。
つるっとしたコンクリートが海風の影響で少し変色している。
上に続いている階段を見つけて、何も考えずに上っていく。
コツコツとした硬い感触が足に当たり、建物を響かせる。
すると何もない広場に出たので、そこにある手すりにとりあえずもたれかかった。
私も後輩もなぜかそこにじっとしていた。
心地よい夜風が顔に当たる。なんだか私たちは彼と似ていた。
家に着いて、帰り道で買った総菜を一つの皿にまとめてのせる。
それを流し込みながらふとカーテンのかかった部屋に目が行った。
そこは私が作家時代に籠っていたアトリエで、ふとやめてしまった時のまま、ずっと埃をかぶっている。
目をそらすようにして家事を済ませ、寝室に入った。
ベランダから見える海も、夜になるとただ真っ暗な一枚の絵のようで、目が慣れる前にさっさと眠った。私が今あの部屋にいたら、何を描いていたのだろうか。
夕方、空と海のつなぎ目がなくなるころに、この前に行った施設のテラスを訪れる。
テラスは海に面して建てられており、視界の隅まで海が広がった。
それは私が昔描いた作品と似た、二つの暗い青が混じり合った景色だった。
香る潮風にぼうっとした時、後輩が後ろから声をかけてきた。
なぜこの景色を見ているのかと尋ねてきたが、はっきりとした答えを口に出せなかった。
ふとどうしようもなく、作家時代の感覚がよぎりそうになり、言葉に出すのをやめた。自分でもなぜあの頃のことを話せないのかがよくわからなかった。
その状況に顔をゆがませていると、後輩は一言、後悔してるんですね、とだけ言って去っていった。
振り返ると雑木林の向こうに風車が見えた。
またテラスに行き、私がこの街にやってきた時のことを思い返していた。
学生の頃、作家活動に奮闘していた夏季休暇中にこの街を訪れ、ただただ一日中歩き回った。
インスピレーションを探し求めて鬱屈としていた私の学生生活とはかけ離れた場所だった。
ふと空気を吸い込んだだけで景色が脳裏によぎり、描くことが楽しくて仕方がなかった。
私はこの感覚からいつしか離れられなくなり、引っ越してきたのだ。
ここにいるだけで私は満たされているのだと思った。
街で暮らし始めて一年がたったころ、貯めこんだ活動資金も尽き、ついに作家としての活動が続けられなくなってしまった。
いっそ地元へ帰ってまた一から始めることも考えたが、私はこの街にこだわった。
仕事を始めてからもいつかは創作を再開するだろうと考えていたし、今もそのつもりでいる。だが、心の底ではもうこれからどうにもならないのだと分かっている。
私がそれを先送りにしているだけで、結局のところ、もう私にはあの海を描くことはできない。
私はその生ぬるい絶望にゆっくりと慣れていっただけなのだということが分かった。
家に着き、アトリエに踏み込む。
湿っぽくて埃だらけのキャンバスたちを無造作にビニール袋に詰めた。
もう私は何も感じなかった。
手に絵の具がひっついたが気にせず、私は全ての絵を袋に詰めて、そのまま車を走らせた。
後部座席で袋がガサガサと揺れる。
ハンドルは青く汚れた。
やがて海辺に着き、砂浜にキャンバスを放り投げる。
バタバタと音を立てながら袋をひっくり返し、私はマッチに火をつけてそれらを燃やした。
小さな火がゆっくりと木材をつたっていく。
ゆらゆらと揺れる火を見ていると、やがて埋もれていた絵が次々に顔を出していった。
その絵を描いた当時の記憶など、もうあまり思い出すこともできない。
これからもきっと思い出すことはないだろう。そんなことを考えながら私の作品は砂浜を明るく照らした。
最後の一枚が燃え尽きる前に、後ろにヒトの気配を感じた。
私は後ろを振り向くことができなかった。
数秒間じっとした後、何かを呟かれた気がしてついに後ろを振り向いたが誰もいなかった。
その瞬間周囲は暗闇に染まった。
Written by Shuann
music cymvidia
https://x.com/cymvidia
video TEAMVEIN
https://x.com/VEIN_lll
てらす
花弁と夢の中で
踊るの 終わる時を知って
揺れているあなただけの色を
ずっと ずっと
色を無くした春香り 風
遠回りだけの 私と
ささやく 浮かぶ泡模様
今 波の音に消える
悲しい言葉と揺れる
昔の季節が雲のように
流れても
花弁と夢の中で
踊るの 終わる時を待って
揺れているあなただけの色を 消して
あなたを優しく照らす後悔が
そっと そっと離れて
溶けていく あなたの表情が
見えなくなっても 覚えていた
あなたを優しく照らす後悔が
ずっと ずっと離れない
やさしくて あなたの表情が
見えなくなっても 覚えていたい