2000年9月14日朝刊 29面
海売った人々(黄海からの警告 韓国の大型干拓ルポ:上)
海を売った人々
干潟が乾き雑草が生えた広大な干拓地の所々に、緑の木々の茂る小高い「山」が点在していた。韓国北西部、京畿(キョンギ)道安山(アンサン)市沖などの黄海で展開される始華(シファ)干拓事業。「山」は干拓で陸続きになった「島」だ。
その一つ、衡(ヒョン)島。島民の朴鵬緒(パクプンソ)さん(六四)がつぶやいた。
「今になってやっと、海の大切さが分かったよ」
貝掘り主体の漁師だったが、干拓事業計画が浮上し、三千万ウォン(約三百万円)の補償金と引き換えに、漁業権を放棄した。現在、わずかな畑作と子供からの仕送りで暮らす。「昔はちょっと干潟を掘れば、アサリやシジミが何万ウォン分か取れた。小遣い銭にも事欠かなかったのに……」
○漁すれば違法
農地など約一万ヘクタールの造成を目指す干拓事業は一九八七年に着工。朴さんによると、補償交渉にきた国の担当者は「干拓工事が終われば農地一ヘクタールをやる」と話したという。だが事業は、閉め切り堤防内の調整池・始華湖の汚染問題で中断し、いまだに農地はできていない。
当時、朴さんの家では干潟を掘るだけで、ひと月に百万ウォン(約十万円)近い収入があった。一方、船も養殖場も持たなかったことから補償金は安かった。
「島外の学校に通う子供の教育費などに充てたら、たちまち底をついた」
堤防閉め切り後、工業・生活排水で汚染された始華湖では、事業を主管する韓国水資源公社が水門を開放し、水質が改善された。魚介類が戻り、釣り客も訪れる。しかし、島民は漁業権を放棄したため、漁をすると違法行為になるという。
九二年、朴さんら島民三十二世帯は水資源公社を相手取り、追加補償を求める訴訟を起こした。一、二審とも島民側が勝訴し、現在は大法院(最高裁)で係争中だ。朴さんは「農地をくれるなり、漁業をさせるなり、国は何らかの手を打って欲しい」と訴える。
○気づけば少数
始華干拓から南へ約百八十キロの全羅(チョルラ)北道沖。閉め切り面積約四万ヘクタール、造成面積約二万八千ヘクタール、世界最大規模の干拓とされるセマングム総合開発事業は、全長三十三キロに及ぶ閉め切り堤防の約半分が完成していた。
「みんな、これからどうやって暮らせばいいか、考えているところだ」。金堤(キムジェ)市深浦(シンポ)里地区の里長、金タ洙^(キムテクス)さん(五一)は苦渋の表情を見せた。一帯はハマグリやアサリの宝庫。漁業補償には同意したが、住民は将来への不安が色濃い。
金さんによると、八七年の計画発表直後から、国の職員が同意書を持って家々を回った。補償額は提示されていなかった。「印鑑を押せば生活は保証する。とにかく押してくれ」の一点張りだった。
当初、金さんは反対だった。だが、一人、二人と同意する住民が増えた。気がつけば反対者は少数派になり、「一人で反対しても仕方がない」と折れた。
結局、地区の補償金は標準で一人あたり二百万-八百五十万ウォンにしかならなかった。金さんは「後の祭りだが、判を押したことがとても悔やまれる」。
○工事で「生計」
長崎県・諌早湾干拓事業で、湾口部の小長井町漁協は八七年、県内十二漁協のうち最後に同意した。
当時の漁協幹部は「反対を貫きたかったが、先に同意した周囲の漁協との関係もあり、反対派を説得して総会で議決した。苦しい決定だった」と振り返る。
潮受け堤防の着工後、同漁協のタイラギの漁獲量は激減し、休漁が続く。原因は明らかではないが、今夏は赤潮で養殖アサリも大量死した。現在、組合員には干拓事業の土木工事に従事する人も多いという。
◇
黄海沿いを中心に、日本の約五倍の面積の干潟を擁する韓国。近年、社会問題化している巨大干拓事業は、諌早湾など日本の干拓事業や干潟保全の在り方に警告を発しているように見える。隣国の現状をリポートする。
(佐賀支局・吉野太一郎)
<韓国の干潟> 中国大陸の黄河の土が黄海に流れ込むため、韓国の西海岸には大きな干潟が発達している。韓国農林水産部の調査によると、現在の干潟の総面積は約二十四万ヘクタールで国土の三%を占め、日本の約五万ヘクタールの約五倍に達する。一九六〇-七〇年代の高度成長期に、国土拡張や農地開発を目的とした大規模干拓事業の計画が次々と打ち出された。その多くは八〇年代に着工され、八七年から九八年の間に約四万二千ヘクタールの干潟が埋め立てや干拓で姿を消しているという。
【写真説明】
広大な干拓地には、元は「島」だった小高い「山」が点在する=8月21日、韓国京畿道華城郡の始華干拓事業造成予定地で、吉野写す
2000年9月15日朝刊 35面
新たな生態系(黄海からの警告 韓国の大型干拓ルポ:中)
湖岸の浅瀬で韓国の天然記念物のミヤコドリの群れが羽を休め、すぐ後方の化学工場群の煙突からは白い煙が盛んに吐き出されていた。付近では刺激のあるにおいが漂う。
○よみがえる湖
閉め切り堤防の水門開放で水質が改善され、「死の湖」からよみがえった始華(シファ)湖(京畿(キョンギ)道安山(アンサン)市沖)。年間十五万-二十万羽が飛来するという韓国有数の「野鳥の楽園」と近くの工場群は、異質な組み合わせに感じられた。
「でも、この二つは密接な関係にある」と韓国海洋研究所の李時玩(イシウォン)研究員。始華湖に野鳥が多いのは「沿岸の工場や上流のソウルから有機排水が流れ込み、鳥のえさとなるゴカイや小エビが多く繁殖しているため」と分析する。加えて、水門の調節で水位が一定に保たれ、潮の干満がなく、えさが食べやすい点も挙げる。
自然を回復したように見える始華湖も、元来の姿とは異なる。李研究員は「汚染がひどかった時期に比べれば安定した状態にあるとはいえ、決して環境がいいとは言えない」と話した。
干潟が乾いた干拓地は雑草が生え、ウサギやイノシシの生息が確認された。始華湖も魚介類が戻り、一帯に「新たな生態系」が誕生した。一方で、捨てられた釣り糸に絡まって犠牲になる野鳥が相次ぎ、野鳥の密猟者や底引き網の密漁船が出没するなど、新たな問題が生じているという。
○人工のアシ原
始華湖東岸に流れ込む半月(パンウォル)川の河口近くに、広大なアシ原が広がっていた。水辺にはシラサギが群れている。始華干拓事業以前に、工業団地開発で埋め立てられた土地の一角で、かつては干潟だった。
アシ原は、韓国水資源公社が水質浄化の実験のために、二百七十億ウォン(約二十七億円)の巨費を投じて造った約百ヘクタールの「人工湿地」だ。上流のソウル近郊は畜産業が発達し、汚水処理場でも処理が難しい窒素やリンなどを、アシによる「自然の浄化作用」で取り除こうと試みている。
韓国海洋研究所の鄭甲植(チョンガプシク)責任研究員は「世界的にも、これほど大規模な人工湿地は例がないのでは」と説明する。だが、水質浄化の効果については「冬になって枯れたアシが始華湖に流れ込み、汚染の原因をつくる。そもそもアシが茂っていない春先までの水質浄化をどうするか。水資源公社は何の解決策も示していない」と首をかしげた。
○本来の姿遠く
世界最大規模の干拓といわれ、全羅北道沖で工事中のセマングム総合開発事業でも、韓国農業基盤公社が水質改善策として、始華湖の十倍の面積の人工湿地を造成する計画を進める。
同公社の広報資料は「干拓地には新しく、多様な生態系が創造される。堤防の外側には新しい干潟が形成され、干潟の生態系も復元される。国際的な観光地として発展させる」とうたっている。
かつての始華湖と同じように、調整池の水質悪化が懸念される長崎県・諌早湾干拓事業。九州農政局諌早湾干拓事務所も一九九九年六月から、調整池の内側でアシやショウブを植え水質浄化の実験を始めた。閉め切り堤防の外側には新たに干潟が形成され、生物は絶滅しないと唱えている点も、セマングム干拓と共通する。
調整池はメダカやギンブナなどの淡水魚が増え、飛来する鳥もシギやチドリに代わって、ガンやカモが目立ってきたという。
人の力が加わってできる「新たな生態系」。始華湖の先例を知る鄭研究員は「自然には、長い年月をかけて海が山になり、陸になるサイクルがある。そのサイクルを無視している現状は、本来の姿とはいえない」と疑問を投げかけた。
<セマングム干拓と諌早湾干拓> 韓国農業基盤公社はセマングム総合開発事業の必要性について▽韓国は山地が多く農地が不足している▽食糧自給率の向上▽農業・生活用水の確保▽南北統一に備えた農地確保、などを掲げる。食糧難から抜け切れていなかった1970年代にコメ増産を目的に計画された部分など、長崎県・諌早湾干拓事業の初期構想が浮上した経緯とよく似ている。同公社の広報資料には、日本の代表的な干拓事例として諌早湾干拓が登場する。「干拓で干潟は消えるか」という項目では、「堤防の外側に新たに干潟が形成されている」実例に、「1600年代から9回にわたり干拓を実施してきた」として、諌早湾を挙げている。
【写真説明】
渡り鳥が羽を休める始華湖東部の浅瀬。後方には化学工場群が広がる=8月28日、韓国・京畿道安山市で、吉野写す
2000年9月19日朝刊 29面
日韓合同調査(黄海からの警告 韓国の大型干拓ルポ:下)
「有明海は韓国西海岸の干潟を縮小したような各種干潟が広がり……(中略)有明海干潟は韓国干潟の子供であると言えます」
長崎県・諌早湾干拓事業の見直し運動の中心的存在で、七月に急逝した山下弘文・日本湿地ネットワーク代表は亡くなる二カ月ほど前、韓国の研究者にあてた書簡の中で、こんな風に日韓の干潟を表現した。干潟を板で滑って移動する「潟スキー」など、有明海と韓国の干潟の漁法に多くの共通性があることにも着目していたという。
その山下さんらの提唱で始まったのが、日韓干潟合同調査だ。大型開発事業にさらされる、両国の干潟の生態系や文化を調べる。
○豊かさを実感
八月下旬、韓国全羅(チョルラ)北道群山(クンサン)市。世界最大規模の干拓とされるセマングム総合開発事業の現地調査に、日韓双方の環境保護団体関係者や学者ら約三十人が集った。五月の第一次に続く第二次調査だった。
セマングム地域は、韓国のハマグリの約八割を生産するといわれ、日本では希少なミドリシャミセン貝が数多く生息するなど、豊かな干潟を誇る。
日本側メンバーの熊本県本渡市の高校教諭、生駒研二さん(四八)は「有明海では見られなくなった大粒のアサリがとれる。この干潟の豊かさを、有明海や不知火の海に取り戻したいとの思いを強くした」と語った。
一方、韓国環境連合で干潟保全運動に携わる金敬源(キムギョンウォン)さん(三二)は「それでも、流入河川に河口ぜきができてから砂がたい積し、生態系がかなり破壊された。干拓事業が完成すれば、重大な影響は避けられない」と懸念を示した。
○意識も高まる
一九九九年一月、群山市の群山大学。日韓双方の干潟を守るための国際シンポジウムに、山下さんら日本の湿地保全運動家も参加した。ここで合同調査が提案され、日韓のNGO(非政府組織)の運動に連携が芽生えた。今年四月には韓国側が諌早湾の閉め切り堤防や干潟を視察した。
五月八日、ソウル。第一次調査を終えた山下さんら日韓のメンバーが記者会見し、セマングム干拓事業の中止や諌早湾の水門開放などを求める「セマングム共同宣言二〇〇〇」を発表した。
現地の新聞やテレビは会見の模様を大きく報じ、反響を呼んだ。セマングム干拓事業を主管する韓国農業基盤公社側は一週間後、山下さんに対し、ファクスで「韓国は昨年、十五万六千トンの米を輸入し、生産過剰の日本とは事情が違う」「すでに干拓対象面積の多くを開発したオランダや日本と異なり、韓国は事業進行中を含め三三%にすぎない」などとA4判用紙九枚にのぼる反論を寄せた。
同公社が事態を気にする背景には、ここ数年の韓国内の環境意識の高まりがある。韓国政府は九八年、セマングム干拓を上回る規模の全羅南道・栄山江(ヨンサンガン)の第四次干拓計画を白紙撤回。九九年には、湿地の保全義務などを盛り込んだ「湿地保全法」を制定した。
○活発論議進む
「水産物や環境浄化力を考慮すれば、干潟は農地よ経済的価値がある」「農地の方が高い」。経済性からも、さまざまな研究機関が干潟と農地の比較を試算するなど、論議が盛んだ。
合同調査メンバーで九州・琉球湿地ネットワーク事務局長の脇義重さん(五四)=福岡市=は「干潟保全への意識では、日本より進んでいる部分がある」と言う。
山下さんの死は、調査の前途にも大きな陰を落とした。その死を乗り越え、第二次調査が実現した。
「山下さんの遺志を継ぎ最後までやり抜きたい」と脇さんは新たな決意を固める。スクラムを組んだ日韓のNGOは今後、両国を行き来する渡り鳥や干潟生物の科学的な調査を進め、二〇〇二年にスペインである第八回ラムサール条約国会議での報告を目指す。
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<干拓事業と政治> 韓国の干拓事業は、政治情勢に左右されてきた面がうかがえる。セマングム干拓も構想自体は一九七〇年代からあったが、計画が確定したのは八七年五月。民主化運動で追い込まれた与党が、直後に控えていた大統領選に備え、支持基盤が弱いとされていた全羅道地区の支持拡大を目的に計画を急いだとの見方もある。大型公共事業の見直しを掲げて就任した金大中大統領も、同地区が強固な支持基盤という事情もあってか、推進の立場を崩していない。国会でも、同道出身者が多い与党・新千年民主党は賛成、野党・ハンナラ党は反対という構図が定着している。
【写真説明】
干潟で野鳥の調査をする日韓合同調査団のメンバーら=8月23日、韓国・全羅北道群山市沖で、吉野写す